2008年9月29日月曜日

La Symphonie Mécanique

ラ・ヴィレットに行ったら、こんなことになってました。

詳しくはこちらで。このヴィレット公園の裏地にこんどはフィルアルモニー・ド・パリが建つのよね。建築は総アルミ製らしいです。

2008年9月26日金曜日

Know your enemy!?

ポピュラー音楽研究も含めた文化研究というものは、エスタブリッシュされた(メインストリームの・エリートの)学問領域に対して、ある種の異議申し立てをすることで、自らの学問としてのアイデンティティ(あるいは科学的説得力)を獲得して来たと思うんですが、その「敵」に当たるもんがはっきりしていないと、異議申し立てもシャドーボクシングに終始してしまうわけですよね。もちろん、異議申し立てが手段ではなく目的になってしまったら、それは本末転倒で、全く無駄な行為なわけだけれど。

というかポピュラー音楽研究に限らず、こういう対立は日常生活のあらゆる局面にあると思う。例えば、親の言う事に納得出来ない子ども。先生の教えに歯向かう生徒。上司の命令に従えない部下。新内閣を信頼出来ない国民。大抵の場合、対立の図式は、年配対若手、多数派対少数派、権力対弱者とか。こういう時に、有効な異議申し立てが出来るチャンネル(レゾー)をもっていることは、民主的な市民生活を営む上で大切な事であり、音楽を含めた文化的・創造的活動は、そうしたレゾーを効率よく作り、運用出来る手段の一つなのである(と言い切ってしまうとかなりイデオロジックか?)。

で、ポピュラー音楽研究を大学で教える、ということになると、この「敵」の姿というのがなんだか良く分からなくなる。パリでコンセルバトワールや大学関係者の話を聞いていると、どうも「実技」対「音楽学」という構図を持っている人と、「音楽学」対「社会科学」、つまり「テキスト分析」対「コンテクスト分析」という構図を持っている人がいるのが判ってきた。僕は社会科学出身だし、今まで、後者の構図でポピュラー音楽研究を把握してきたところがある。でも、もしかするとこれを本格的に問い直さなければならないのではないかと思っている。

「社会科学」の方が「ポピュラー」なるものを析出・対象化しやすく、逆に「音楽学」は「ポピュラー」階層には自然には獲得出来ない能力(要するに音楽的読解力)を前提に、その能力にとって心地よい(都合の良い?)対象を分析するので、必然的に「ポピュラー」は卑下され、「芸術音楽」だけが研究対象になる。これがなんだか、ポピュラー音楽研究レペゼン庶民、音楽学レペゼンブルジョワみたいな構図に還元されて、ポピュラー音楽研究の方になんというかメシア的な、弱者救済的な正義感を与えていたような気がするんだよね。そりゃ救えるものだったら、弱者は救いたいけれども。

というのも、その弱者が聞いている音って、どうやって分析可能なの、という疑問があるのね。コード進行も和声もメロディーも、形式的には分析出来なくても(する必要を感じなくても)、心地よいとか、キモいとか思ったり、あるいは全く無関心だったりする、今の社会での音楽のあり方、聴こえ方を分析の対象には出来ないのかしら。「作者」とか「作品」とか言うけれど、もう誰のなんていう曲かなんて、覚えてない方が多いでしょ。下手するとサビの一部しか頭に残ってない。これを後退的聴取とかいうとやっぱり問題あるけど、じゃあその聴取ってなにを聴いているの?

この辺りの疑問に細かく答えていってぐるっと一周すると、ポピュラー音楽研究コースで実技をどうやって定義して、演奏力のある学生とない学生をどうやって見分けるのか、なんかについても答えが出てくるような気がするんだが。

キース・ニーガスと最近したやり取りでは、この辺の問題が話題になった。近く久しぶりに会う予定なので、いろいろヒントを貰いたいと思ってはいる。

2008年9月23日火曜日

フランスの高等教育機関が音楽の実技と理論を教えられないわけ

色んな意味で目からうろこの一日であったよ。シテ・ド・ラ・ミュジークで催されたこれに出席してきたんだが。その直後に同じシテ・ド・ラ・ミュジークでディヴァイン・コメディーのライブがあって、「招待券余ってるわよ」とまで言われたのが、別の約束があったために断念。実は喉から手が出るほど欲しかったのだが……。

イギリスとフランスの高等教育機関(素直に大学と言い切れないのはフランスの教育制度の複雑さ故)におけるポピュラー音楽教育のあり方について、ざっとリサーチをかけているのだが、ポピュラー音楽研究コースがどんどん高等教育に取り込まれている英国に比べ、フランスでは全くと言っていいほどこれが発展していない。そのなぜか、という根本的なところが、きょうの話を聞いていてすっきりと解ってきた。別に英国の方が進歩的で、フランスの方が保守的とかいう(ステロタイプ的な)メンタリティの問題ではなく、もっと制度的な問題みたい。あるいはそういうメンタリティが教育制度として客体化してしまっているのか。

英国の場合、1992年を境に、それまで専門学校(ポリテクニック)とされていた学校が大学として認可されるようになったんだけど、それと同時に、より若者にアピールしやすく、また雇用市場で需要のある技能を教える大学のコースが激増したのね。ポピュラー音楽研究コースがその頃から増え始めたのもそのせい。逆に92年以前から大学として認可されていた学校(ってつまり大学なんだけどさ)は、90年代後半以降になると、お高くとまっていたこれまでの態度を一変して、音楽学コースにポピュラー音楽研究コースを挿し木したり並立させたりして巻き返しを図った。リバプール大のIPMが音楽学科と合併して音楽学部になり、実技と理論を上手くまとめたコースを設置したり、ロンドン大学ゴールドスミス校の音楽学部がニーガスを教授として招いてポピュラー音楽研究コースを作ったりとか、みんなこうした動きのようです。さらには、イギリスの場合、9.11同時多発テロ前後、暴動などに向かいがちな若者たちのエネルギーの矛先を職能訓練や高等教育に向けさせるのにもポピュラー音楽を含む科目がずいぶん役に立った模様で、日本で言う大学入学資格試験であるA-Levelというテストの科目に、演奏技術を問わない(要するに電気配線や録音、MIDIの知識があれば通る)「音楽技術」というのが誕生したりしている。こういうものすごくローカルなファクターが英国の高等教育機関におけるポピュラー音楽研究コースの認知に寄与していたというわけ。もちろんだからといって、研究の質が落ちているわけではないけれど。

それまで形式音楽学的なテクスト分析を忌避してきた英語圏の研究者たちが、急に「テクストを聴け」とか言い出したのも、こういう背景を理解して考えないとなのかもな。いや、確かに音楽そのものを無視して文脈だけを論じたのでは、確かにポピュラー音楽研究というのはカルスタ(死後か?)の一分野として終ってしまうというのは確か。ポピュラー音楽研究を自律した独自の領域として考えるのであれば、少なくともなぜポピュラー音楽を聴かずに論ずるのか、について論理的な答えを用意しとかなければならない。

じゃ、フランスはどうなのよと。別に自分の住んでる場所を贔屓するつもりはないけれど、フランスのポピュラー音楽研究は、英米と肩を並べるほどに進んでいる。それも、理論面で唸らせつつ、エンピリカルに説得力をもった質の高い研究が多い。ただ、それらが体系的にまとまっていないのが、なんとなく「薄い」印象に繋がっている。まあ、日本と似た感じか。優秀な研究者はあちこちに散在してるが、結局のところ体系的にポピュラー音楽を教えている学校はない。普通だったら、なんでエニョンが鉱物学校で教えてるのか理解に苦しむでしょう。カルスタに関する感受性も日本での展開に似ていて、10〜15年前までは懐疑主義一色だったのが、ここに来てやっと、落ち着いて評価する/出来る層が現れている模様。書店の文化社会学の棚が、ここ数年で三倍くらい大きくなったのがその証拠だし、なにを思ったのかディック・ヘブディッジの「サブカルチャー」の仏訳が今年になってやっと出版された(笑)。

しかし、いろんな人に話を聞いているうち、実技と理論の双方を適切なバランスで教えるポピュラー音楽研究コースがフランスにない原因は、実はもっと厄介な問題らしい事が解ってきた。要するに、フランスでは実技指導をするコンセルバトワールという教育機関と、音楽学を教える大学という教育機関が並立していて、その間の行き来がほとんどないのである。しかも音楽学(楽曲分析、作家研究のみならず、文脈研究も含む)を教える大学の数は数えるほどしかなく、実技を教える設備・能力を持ち合わせていないことが普通なのだ。更に言えば、コンセルバトワールで三年勉強して得られる学位は、大学で同じ時間勉強して得られる学位(つまり学士号)とは全く異質の、演奏の世界でしか意味のない紙ペラである。

芸術音楽の世界でさえこうした状況なのだから、ポピュラー音楽に関しては目も当てられない。まず、実技を教える高等教育機関がない(ジャズはカリキュラムに取り入れられているが、これはまた別の話である)。音楽学のカリキュラムにポピュラー音楽が取り入れられているケースはほぼ皆無である。こうした現実のなかで、どうもフランス人の心ある演奏家・理論家は、コンセルバトワールと大学の音楽学コースの両方にダブルスクーリングするらしいが、どう考えたって無茶でしょう(!)。確かにフランス風ロマン主義の伝統と言えばそうなのかもしれないが(美しい音楽を演奏していれば、いつか報われる)、コンセルバトワールは演奏しか出来ない人(ビジネスセンスとか、企画書の書き方とか、コンセルバトワールでは教えてくれないらしい)ばかりを量産しているのである。

なんだか脈絡なくなってきたが、今日お話を聞いたシテ・ド・ラ・ミュジークのコースは、まさにそういう音楽家を対象に、じゃあプロとしてどうやって自分を売り込めば良いの?っていう、(どうやら彼らにとっては今まで一度も考えた事のない)問いに対する答えをみんなで出してゆくというワークショップだったんですね。コンセルバトワール出たての音楽家や、オペラ畑で数十年のキャリアを積みながらも経済的には窮乏していて、子どもも生まれちゃったしどうしよう的な人や、レコード会社と契約寸前間で行きながらチャンスを逃した人や、キャリア志向で目ギラギラの作曲家、ずっと趣味でロックをやっているけど、40歳になるにおよんで、音楽で食えないか真剣に悩み始めている人、などなど。

しかし、芸術音楽対ポピュラー音楽という対立は取り敢えず置いといたとしても、シテ・ド・ラ・ミュジークのような組織が、こういう人たちの求めている事に敏感に反応して、こういうワークショップを設けているという事自体が、逆に言えば、フランスのすごいところなんですよ。言ってみれば奏楽堂が芸大卒業生に対して音楽産業への売り込み方講座を開くようなもん(譬えに無理有りか?)。

京都ではそういう無理な事もしてみたいです。

2008年9月17日水曜日

新しい声

大学の話が決まって以来、やっと自分でずっと前から会いたいと思っていた人たちにぽつぽつ会える理由と時間が出来、ここ数週間浮かれ気味だったのだが、これまで数年にわたりそういう知的好奇心を押し殺すことに慣れきってしまった身体の方が拒否反応を起こしてしまった。英仏の研究者たちとインタビューのアポがとれ始めたとたん、喉の奥が腫れ、声が出なくなってしまったのである。

シンクロニシティなんだろうか。う〜ん、こういうオカルティック(と書くと失礼か)な物言いをするのは苦手だが。

というわけで、一昨日医者に診てもらったのだが、ただの風邪かインフルエンザかなんかだと思っていたら、喉の奥に膿がたまった直径2-3センチの腫れ物が出来ているということで、即刻手術ということになった。ビビりましたわ。口底蜂窩織炎(phlegmon)というらしいんだが、ウィキなんかを見ても良く分からん。おそらくは日本で言う扁桃腺炎の一種だと思う。いずれにせよ、これまで病院で医者と話したり(妻の出産時除く)、手術というものを受けたことがないわたくし。戦々恐々として事におよんだんだが。すごいっす、最新の医療技術。麻酔なんてホント、局地的にスプレーするだけ。それで超細密な針のついた高性能掃除機のようなものを腫れ物に突き刺して、膿をジュルジュルと吸い出して終わりだった。3分もかからないうちに、長年の抑圧生活の膿は、全部試験管に収容されたのであった(写真参照。こういうの嫌いな人は、わざわざ拡大して見ない方が良いかと)。

ただ単に疾患部が除去されたっていう以上に心理的な圧迫感から清々しく解放された感じがすごくしてる。一時は「HAL9000の情けない版みたいな声」[出典:妻]といわれるほどに歪んだ自分の声を、今はゆっくり、しっかり取り返す作業をしてます。6〜7割がた回復しているんすが、カ行で喉奥使うときまだ少しひるむのと、ハ行、マ行、ナ行などで鼻に抜ける分が普段より多くなるので、大村崑とゴン太君を足して二で割ったような(あくまでも自分で聞いた印象だけど)、それはそれで新たな人格として(笑)やっていけそうな声になっている。そうこうしながら、会いたい人たちとのランデヴーはコンスタントにとれてるから、やっぱりなんか、僕の意識出来ない集合的な動きに絡みとられているのかなあ。たしかに、まだ患部が喉にぶら下がっていた時は、眠りにつくと無意識の急流みたいなものにすぐにのみ込まれてしまい(あらゆる方向から次々とものすごく急速な判断が必要な問題や質問(もはや具体的な内容は忘れたが)を突き出されて、決断を迫られる)、なんとかそれを躱しているうちに唾をのみ込んでしまい、それで喉が痛んで起こされるというのを一晩に数十回くらい繰り返してたのね。

会いたい人たちっていうのは、Peter SzendyとかLudovic TournèsとかFrançoise BenhamouとかSophie Maisonneuveとか、今のフランスの(ポピュラー)音楽研究の鍵になっている人物。要するに来年以降の講義のネタ集めなんだけど、それ以外にもね、いくつか企画は温めつつ。インタビューの内容も、時間の許す限りここで読めるにようにしたいと思います。

いずれにせよ声って、やっぱり自己アイデンティティとものすごく強く結びついてるよな、と考える今日この頃なわけである。

2008年9月11日木曜日

これだけ大間違いをしてあれだけ有名になる方法(2/3)

昨日、無事エニョン教授にお話を聞いてきました。ポピュラー音楽研究の「ポピュラー」を巡る英仏の温度差とか、いろいろ考えさせられました。その辺また後日ということで。さしあたり、例の訳文の第二弾です。次回で最終回(予定)。

ベンヤミンによるアートとアウラと距離、あるいはこれだけ大間違いをしでかしておいてあれだけ有名になる方法
アントワーヌ・エニョンとブルーノ・ラトゥール著

しかし、ベンヤミン論文の最大の試金石は、技術そのものだ。実際には技術に関する直接的な議論はほとんど展開されていない。むしろ、当然の前提として示されている。技術の原則的機能は、オリジナルを機械的に再生産することである---そして我々は、この全く陳腐な定義こそ、ベンヤミンが犯した第二の、そして最大の取り違いだと考える。技術を機械的再生産と短絡するこの間違った定義を、オリジナルの単一的な存在という宗教的アウラの誤った定義と組み合わせて使うとき、ベンヤミンは、複製は、オリジナルの色あせた贋作に過ぎない、という結論に向かって一直線に突き進む。

ベンヤミンは自分のテーゼを支えに、芸術史を2ページだけで大胆不敵まとめているが、彼の議論の正反対に向かう一連の議論をするのに、芸術史ほどおあつらえ向きの領域はない。技術とは機械的再生産ではない。そもそも、最初にオリジナルなるものがあり、それがあとから複製されるということ自体が、実はあり得ないのである。つまり、この仮説が既に確固たる経験論的結果として受け入れているというのでない限り、作品の増殖それ自体が、作品の貧困化と同一視されるいわれはないのだ。

例えば、古代彫像に対する近代的嗜好の形成過程について分析しているフランシス・ハスケルとニコラス・ペニーの研究に目を向けてみよう。イタリア人発掘者が関心を示すとき、これらの古びた彫像は、古代的完全主義の見本とされ、また、イタリア的アイデンティティを再構築するための道具として使われる。発掘者はこれらの彫像一つ一つの美学的価値などにはほとんど関心を寄せず、彫刻家に対してもほとんど注意しない代わり、過去と現在のあいだの連続性を主張し、そして掘り出した彫像を、美の本質に触れるための積極的な媒介物として利用するのである。アウラに対する配慮など全くなしで、かれらは彫像を修復し、移動させ、複製する。彼らとって、芸術とは、オリジナルの純粋さに捧げられた信仰などではあり得ない。それは行為の奔流に他ならないのだ。ハスケルとペニーは、精密な議論を通して、全く逆に、むしろ複製のほうが、少しずつ、オリジナルを生み出していったことを証明する。過去や他者との結びつきを保つための手段であったものが、不変で不可触な「オリジナル」に変成するのに三世紀を要した---そして、これら古代ローマ彫像がオリジナルの地位を獲得してから、今度はギリシャ彫像という更にオリジナルな芸術の脇役の座に引きずり落とされるまでに、更に一世紀が必要であった。ローマ彫像はギリシャ彫像の色あせた複製に過ぎない、というわけだ。

オセンティシティという主題そのものが、実は、発明しうる全ての技術的手段を使った不断の再生産活動の一足遅れた副産物である。ベンヤミンは、芸術のコモンセンスというイメージの名において、その技術的複製物への変質を預言するのだが、このイメージ自体が、じつは継続的な技術的再生産の賜物なのである。ラテン語で芸術を意味するアルスとは、実は技術(テクニック)のことであり、このことを考えると、アーティスト達が自分たちの技術的手段に絶えず執着することが、ベンヤミンのでっち上げた芸術と技術の対立という図式よりもずっとすんなりと理解出来る。写真家は、写真を撮り始めるや否や、それをどうやってより写実的に見せるかではなく、焼き付けのために必要な数々の技術的選択に美的な意味を与え、印画紙の質やレンズの種類、構図などを洗練させる。ベンヤミンは、写真と同じくらい、映画についても勘違いをしている。映画には、機械的な部分など一つもない。ベンヤミンは、映画俳優とは大衆に無媒介に提供される「人格」だとしているが(xxp.231)、映画が切り取る俳優の平凡な表現ほど嘘くさいものはない---キャメラは単純に、長い連鎖に補足的な媒介を加えるのであり、その連鎖を切断するものではないのだ。撮影スタジオにおける現前性は、舞台上でのそれに比べて弱いわけでも、強いわけでもなく、またこれらの「パフォーマンス」のなかには同じくらいの技術と媒介が介在している。録音技師なら誰でも、自分の技術が生み出しているのは音楽そのものであり、なにかを再生産しているのではないことを知っているだろう。技術とは、常に、芸術生産の積極的な手段だったのであり、それまで世俗を超越していた創造物の近代的な堕落をもたらすものではなかった。ベンヤミンは、自らが批判しようとしていた、ロマン主義的なものの見方そのものの虜になっているのである。

もし、再生産なるものが、積極的な再創造であり、技術が機械とは関係ないとしたら、逆に増殖は、フェティッシュの具体的な消費のなかにおけるオリジナルのオーセンティシティの消極的な溶解以外のなにものかである。むしろ、徹底的な技術的再生産の存在を、いわば必要不可欠の条件として前提としているのは、単一性やオーセンティシティの方なのだ。音楽を例に取ると、このことが明確に分かる。つまり音楽の原初には、絶え間ない反復と規格性、構想、シェーマとその変奏があり、その後で作品というものが現れる。唯一無二の作品を作り上げる近代的作曲家などというものは近代期以前には存在しなかった。1750年という比較的最近の時点でさえ、ラモーは、自らのオペラを改めて上演する機会がある度に、その機会にあわせてそれを書き直していたのである。「イポリット…」や「ダルダニュス」の安定バージョンという言葉が幾ばくかでも意味を持ち始めたのは、20世紀中葉、レコード産業の都合にあわせなければなかったからに過ぎない。それまで、音楽は演奏されるために書かれ、作曲家は、主題とハーモニーという連続的な織物に基づいて複製し、採譜し、修正し、改変していた。もともとは、愛好家が一緒に演奏するために様々な写譜を混ぜ合わせたものであった楽譜なるものを、(二〜三世代の音楽学者がやっと作り上げた)特定の作曲家により書かれたオリジナル作品の原テクストの忠実な複製物に作り替えることは、精力的ないくつもの出版社による不断の努力なしには不可能であったはずだ。そしてその後、より長期的な第二の変形が、レコード産業の主導により、バッハやシューベルトの作品の作者がバッハやシューベルトであると理解出来る耳を持った、新しい愛好家向けのマーケットを生み出すために必要であった。絵画については、自分の描いた絵の作者として自らを変身させるために、レンブラント---そして彼以降の画家全て---が多大な努力と戦略的な洞察力を駆使していたことついて、スヴェトラーナ・アルパースが証明している。

この「作者」に関する指摘は、ミッシェル・フーコーの有名な論文以来、折にふれてあちこちで論じられている。ベンヤミンは当然、こうしたいわゆるニューアートヒストリーや作者性=権威に関する社会学について、知る由もなかったが、それでもやはり、彼が自分のテーゼを証明するために書籍の事例をほとんど使わなかったことは興味深い。あるいは、それほど驚くべきことでもないのかもしれない。「印刷機が多大な変化を…【中略】…文学に強要したことは、良く知られた話」(p.218-9)だと言うのは本当だとして、その良く知られた話というのは、実はアウラの消失とは全く違う話であり、作者の誕生と読者の新たな拡大の話なのだ。より精密に言うならば、印刷機の事例は、物資的媒体としてのテクストの機械的再生産と読書の普及とのあいだでベンヤミンが陥った混乱を、あるいはとても明確に証明してくれるかもしれない。ここでの機械的再生産は読書の単一性や多様性を妨げるどころか、全く逆に、読書の単一性や多様性を可能にしているのである。わたしが、今ここで個人的に「オテロ」を読むことが出来るのは、この本が世界中で何十億万部と印刷されて「いるにも拘らず」ではない。何十万部も印刷されて「いるからこそ」わたしの個人的読書経験は可能なのだ。

2008年9月9日火曜日

これだけ大間違いをしてあれだけ有名になる方法(1/3)

またエニョンねたですんません(今週お目にかかる予定なので予習しとかないとね)。日本語では「アウラ」なんて旧仮名遣っぽい(いや、ただ正当にドイツ語読みしたのか?)呼ばれ方をしている、ベンヤミンのあの本に、エニョンが突っ込みを入れてます。オリジナルはここ。もともとはこの本に掲載された論考ですが、ウェブで公開されているので、翻訳しときます。結構言い回しが細かいので、もしかすると途中で挫折するかも(笑)。一応三回シリーズということでご了承くださいませ。

ベンヤミンによるアートとアウラと距離、あるいはこれだけ大間違いをしでかしておいてあれだけ有名になる方法
アントワーヌ・エニョンとブルーノ・ラトゥール著

昔、みんなが構造と力を信用しきっていた頃、我々はヴァルター・ベンヤミンのあの有名な論文に多大なる影響を受けたものだった。あれまで唯物論を礼賛してきたマルクス主義的、批評的伝統が技術的装置を手にしてしまったことに対する軽蔑から、なんとかして逃れなければならない。それが遥か昔の当時、求められていたことなのであった。

ベンヤミンの論文が発表されるまで、これらの技術装置は、使う人の利害によって良いものにも悪いものにもなる、中立的な、単純な道具だと考えられていた。ベンヤミン、そして彼のフランクフルトの同僚たちは、これとは別の教訓を持ち込んだ。技術は権力を作り出す。「芸術を見てみるがよい」と彼らは言った。再生産技術にちょっとした変化があっただけで、作品そのものの内容に、そしてその受け手に、信じ難い変質がもたらされたのだ。キリストは間違いを犯した。パンが増殖することで、聖体のパン自体も実体変化を受けることになってしまったのである。

このメッセージは強烈なもので、そのため、皆の目に止まらないわけにはいかなかった。

この論文を今日改めて読み直してみたが、我々のリアクションはかなり違う。先駆者たるベンヤミンに必要なオマージュを捧げ、現在ベンヤミンに対して行われている批評がどれだけベンヤミン本人に負っているかを認めた上で、我々は全く逆に、この論文があっさりと犯している間違いの多さに茫然とさせられるのである。いや、もっと正確に言えば、近代にせよ、過去にせよ、分析対象とされた現象のほとんどについて、ベンヤミンが全く理解していないことに呆れてしまうのだ。
我々は、ベンヤミンの威光の強さに対抗するために、わざと同じくらい挑発的なトーンで、敢えて指摘してみたい。これらの間違いは、ベンヤミンの功績の土台となった数々の洞察力にしてみれば全く他愛ない、力強いテクストのなかの些細な間違いとして済まして良いものではなく、彼が読者に及ぼした(そして現在も及ぼし続けている)幻術の主因なのである。ほとんどの作者が忌避するような、無知丸出しのこじつけを通して、『複製技術時代の芸術作品』には、芸術、文化、建築、科学、技術、宗教、経済、政治、そして更には戦争や精神分析に至るまで、近代的生活の全ての局面が簡素に描かれている。そして、こうした言葉が出てくるたびに、我々は、ベンヤミンが議論の対象を取り違えているような印象を禁じ得ないのである。

何度も繰り返される二分法が、この論文の議論全体の基調となる。一方に、単一性や熟考、集中、そしてアウラがあり、他方に、大衆、息抜き、没頭、そしてアウラの喪失がある。

しかし、この「アウラ」なるものの位置づけはかなり曖昧である。「アウラ」はベンヤミンのテーゼのみならず、近代及び過去に関する現行の議論の多くにとっても中心的なものなので、より厳密に点検する必要がある。ベンヤミンはアウラを持ち出すことで、議論に正当性を与えるための非常に効率の良い手段を手に入れる。ベンヤミンが現在を分析する時、アウラは、失楽園のようなものになる。これはある種の否定的参照点であり、ベンヤミンはこれを頼りに、作品の機械的再生産がもたらす新しい効果と、芸術の旧来の美に取って代わった大衆の誘惑を記述する。しかし、かれが過去を検証するときは、アウラに対するノスタルジーそのものもまた、幻想として、あるいは聖遺物として、つまり、崇拝的価値の残滓として、批判される。このように、近代芸術に対する批判そのものもまた、今や消滅してしまった選民的な芸術観に戻ろうとする、ブルジョワ的反動を意図するものとして批判されうるのだ。芸術の、規格化された近代的複製品は、現前性のオセンティシティを失った---しかし、現前性自体、古めかしい宗教的人工物に過ぎない、というのである。

我々は、芸術と宗教のあいだのこの第一のこじつけを、ベンヤミンの最初の間違いだと考える。神の隠された形象に捧げられた崇拝儀礼というものは、偶像崇拝の定義にこそ当て嵌まるもので、宗教の定義ではあり得ない。近代を批判するために宗教を取り上げておきながら、他方で宗教を批判するために近代を取り上げることは出来ないのである。にも拘らず、近代合理主義者の風情で、アウラは宗教と同一視されている---しかし、それならば、同時に芸術が神格を失ったことを非難することは出来ないはずだ。合理性という近代的道具は、宗教が目の敵にしてきたはずのフェティシズムと宗教そのものを区別しないのであり、それゆえ芸術の神格などはとっくに葬り去ってしまったのだ。逆に、近代が挑発したとされる芸術の「非神聖化」は、いかなる神聖な意味も持ち得ない。それがフェティッシュ的価値の喪失を目的としている以上、すでに失われたものに神聖な価値があるわけが無いのである---宗教は常に、神は形象ではなく、それを超えた何ものかであると言明してきた。それにも拘らず、この論文はアウラになにか実体的なものを盛り込み、そして神を偶像にすげ替えようとするものとして近代のフェティシズムを非難するのである。しかし、それならばなぜ、映画の話を持ち出すのか? どうして最新技術や大衆を持ち出すのか? 結局、近代についてはなにも言っていないのである。結局、聖書のなかの勿体ぶったお馴染みの預言者たちのように、大衆の信仰の対象である偶像やフェティッシュを覆しただけなのである!

2008年9月7日日曜日

パリ、ピカルディ

iPhone発売日に携帯を落とし、「これは神の啓示」、なんて思っていたのだが、案の定在庫切れということでどうしようかといろいろ悩みながら、結局、夏は久しぶりに携帯電話なしで乗り切ってしまった(笑)。しかし9月になって仕事が再開したとたん、これまで多めに見てくれていた同僚たちも「いい加減に携帯買ってくれ」とぶつぶつ言うようになったので、ついに諦めて買ってしまった。それも、機能は後回しで安くてすぐ手に入るモデル、ということで、iPhoneどころかソニエリの廉価モデル(帰国を半年後に控えたいま、わざわざフランスでiPhoneを買うのがばからしくなったのだ)。スクリーン小さいし、日本語の読み書きも出来ないし、マックとのシンクロもそのままでは出来ない。おまけに現物は注文時にウェブで見たのとずいぶん違う色合いで少しがっくり。なんつーんですか、こういう色。チタン? ガンメタル? シャンパンゴールド? というか、金歯っぽい(笑)。僕の持ち物全部見回してもこれまでなかったカラーバリエーションである。

が、カメラがついてるのが新鮮でしょうがない。こんなこと言うと笑われるかも知れないが、わたしの歴代携帯にはカメラがついてたことがないのですよ。そもそも欧州の携帯網は日本に比べて通信速度の高速化が遅れていて、映像機能はあっても使いこなせないという制約があったし、更に仕事柄企業に取材に行ったり、通訳に行ったりしていたので、カメラのついてない方が問題が少ないという(下手すると産業スパイ扱いだからね)理由もあった。

で、昨日から写真撮りまくりなのだが、きょうは家族で少し面白いところにハイキングに行ったので報告する。半年後には帰国だし、フランスの風景も残しておかないと。


大きな地図で見る
というわけで本題。我々の住んでいるのはパリから電車で45分ほど北上したコンピエーニュ市というところなのだが、このコンピエーニュ市があるピカルディ地方に、一ヶ所だけパリ市がある。……といっても分からないだろうが、コンピエーニュから東に30キロ程のフェルテ・ミロン村の中程を流れるウルク運河の中州部分(グーグルマップだと、ちょっと分かりづらいが)が、なんとパリ市の所有物で、行政上もパリ市なのだそうだ(といっても、住んでいる人はいないけれど)。ピカルディと言えばパリ近郊でも有数の穀倉地帯であり、ここで収穫された麦を、間違いなくパリ市内に送り届けることが昔は政策上の最優先事項の一つだったらしく、そのためわざわざここに監視所を設けたのが、そもそもの始まりらしい。当時は当然、水路で運んでいたんでしょうね。ウルク運河は、そのままサン=マルタン運河に合流して、パリに流れ込む。バスティーユ広場の地下を通ってセーヌ川まで行ける。いまは鴨や鵞鳥が群れ泳ぐ平和な場所である。もちろんいざとなればいまでも水路でパリに下れるはずだし、上っていけば、船でアムステルダムにだっていけるはずだ。

フェルテ・ミロン村は、ラシーヌが生まれた場所としても知られている。未完のまま朽ちた城塞は15世紀のものらしい。ファサードだけがドンと立ちはだかり、その裏側に、「Café des ruins(廃墟カフェ)」なるあばら屋が建っていた。最初冗談だと思ったのだが、近づくに連れ、いまも営業中であることが判明。しかも結構繁盛していた。お昼時だったこともあって車が次々と乗りつけて、日曜日のよそ行きの服を着た地元の人たちが店に入っていった。レストランもやっているようだ。今回はお弁当持参だし、食事は次回にお預けである。石畳の階段と石造りの家々が並び、一見ロマンティックな(作為的な人工物で構成されているにも拘らず、あたかもそれが自然で当たり前であるかのように「自然化」する意志=力が作用している)ところなんだが、実はそんな一筋縄でゆく村ではない。

というのも、この村にはあのギュスタヴ・エッフェルが作った小橋があるのだ。はば1メートル、長さ3メートルほどの橋で、ウルク運河左岸と例の中州(パリ市)を結んでいる。いつ、どういういきさつでエッフェルがこの橋を作ることになったのかは定かではないが、規模や工作精度(笑)からしても、エッフェル塔(1889年)やらニューヨークの自由の女神像(1886年)よりもずっと前のことだろう。千里の道も一歩からとはよく言ったもんである。ところで、ウィキペディアを見てたら、ピンク・フロイドの1977年アルバム「アニマルズ」のプロモ写真(現物見たことないのでどんなもんか不明)が、この村で撮影されたそうだ。

というわけで、携帯にカメラがついてきた、というお話であった。

2008年9月6日土曜日

世界の人権・2008年

2007年度から翻訳に関わらさせていただいている、アムネスティ・インターナショナルの人権に関する年次報告書『アムネスティー・レポート〜世界の人権 2008』が早くも刊行されました。去年までは、本部の報告書が発表されてから翻訳に取りかかっていたので、遅れ気味だったのですが、今年から、本部での編集作業と並行して作業を進めるようになったらしく、日本語版とのギャップも半年を切りました。この仕事は、翻訳家として僕が尊敬する藤田真利子さん(アムネスティ日本の理事にして、死刑廃止運動家。なのにミステリ翻訳の名手。更にチョムスキーなんかも手がけている。ちょっと前に話題になった『プリンセス・マサコ』の訳者でもあります)に声をかけていただいて続けているんですが、いろいろ勉強になっております。僕の担当は、ヨーロッパ/中央アジアなんですが、人権に関しては《優等生》であるにも拘らず、一番ページ数が多いのがこの地域と言われて結構驚いた覚えがある。ページが多いってことは、それだけ報告される人権違反事例が多いってこと(多い分、ギャラは増えたけどさ)。まあ、セルビアとかチェチェンとか旧ユーゴとか、酷い話は多いです。
音楽に直接関わるもんはあんまりないけれど、よく引用される事例として、LGBT系のパレードが規制されたり、弾圧されたりというのがある。あと、ロマの人びとの強制排除とか。
自宅に一冊とは言いませんが、良かったら図書館にでも注文してください。

2008年9月2日火曜日

エニョン、テイストについて語る

フランスの社会学者アントワーヌ・エニョンが、「テイスト」という概念について、ブルデュー理論に反駁してます。「テイスト」というのは社会階層のマーカーに還元されうるものではなく、量的調査のアンケートの質問設定からはずっと個人的な興味や関心、快楽や欲望などがどうしても抜け落ちてしまうはずだ、とか言ってます。で、その「テイスト」という言葉をもう一度見直す上で、そのそもそもの意味である「味覚」というところまで戻って理論化し直そうとしている(例えば、ワインの「テースティング」)のが面白い。

もともと、カントなどの西洋哲学では味覚と嗅覚は、視覚、聴覚、触覚に比べて下等な感覚だと看做されていたらしく(味覚、嗅覚は身体に異物が入り込んで初めて成り立つ感覚であり、感覚の対象を客体化しずらい上、客観的な真理として他人と共有し難い)、それゆえ、より身体や感情に近いものとして忌避されていたらしいんですね。宗教でも道徳でも暴飲暴食は当然ネガティブなものと捉えられていたし、多分いまもそう。

そういう、蔑まれた感覚を示す言葉が、どうしていつの間にか、「高尚な」美的判断力を示す言葉に変容していったのか? このあたりをつついてですね、ブルデューが結局扱っているのは、この後者の、本来であれば二次的な意味での「テイスト」でしかなく、前者の、本来の(多分ヘドニスティックな)「テイスト」を捉えるのを忘れているんじゃないか,って言うのが、最近のエニョンの立場取りのようです(って、このインタビューではそこまで突っ込んでませんが)。

いま、その辺の本をガーッと読んでいるので、そのうちご報告いたしますです。