2008年9月7日日曜日

パリ、ピカルディ

iPhone発売日に携帯を落とし、「これは神の啓示」、なんて思っていたのだが、案の定在庫切れということでどうしようかといろいろ悩みながら、結局、夏は久しぶりに携帯電話なしで乗り切ってしまった(笑)。しかし9月になって仕事が再開したとたん、これまで多めに見てくれていた同僚たちも「いい加減に携帯買ってくれ」とぶつぶつ言うようになったので、ついに諦めて買ってしまった。それも、機能は後回しで安くてすぐ手に入るモデル、ということで、iPhoneどころかソニエリの廉価モデル(帰国を半年後に控えたいま、わざわざフランスでiPhoneを買うのがばからしくなったのだ)。スクリーン小さいし、日本語の読み書きも出来ないし、マックとのシンクロもそのままでは出来ない。おまけに現物は注文時にウェブで見たのとずいぶん違う色合いで少しがっくり。なんつーんですか、こういう色。チタン? ガンメタル? シャンパンゴールド? というか、金歯っぽい(笑)。僕の持ち物全部見回してもこれまでなかったカラーバリエーションである。

が、カメラがついてるのが新鮮でしょうがない。こんなこと言うと笑われるかも知れないが、わたしの歴代携帯にはカメラがついてたことがないのですよ。そもそも欧州の携帯網は日本に比べて通信速度の高速化が遅れていて、映像機能はあっても使いこなせないという制約があったし、更に仕事柄企業に取材に行ったり、通訳に行ったりしていたので、カメラのついてない方が問題が少ないという(下手すると産業スパイ扱いだからね)理由もあった。

で、昨日から写真撮りまくりなのだが、きょうは家族で少し面白いところにハイキングに行ったので報告する。半年後には帰国だし、フランスの風景も残しておかないと。


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というわけで本題。我々の住んでいるのはパリから電車で45分ほど北上したコンピエーニュ市というところなのだが、このコンピエーニュ市があるピカルディ地方に、一ヶ所だけパリ市がある。……といっても分からないだろうが、コンピエーニュから東に30キロ程のフェルテ・ミロン村の中程を流れるウルク運河の中州部分(グーグルマップだと、ちょっと分かりづらいが)が、なんとパリ市の所有物で、行政上もパリ市なのだそうだ(といっても、住んでいる人はいないけれど)。ピカルディと言えばパリ近郊でも有数の穀倉地帯であり、ここで収穫された麦を、間違いなくパリ市内に送り届けることが昔は政策上の最優先事項の一つだったらしく、そのためわざわざここに監視所を設けたのが、そもそもの始まりらしい。当時は当然、水路で運んでいたんでしょうね。ウルク運河は、そのままサン=マルタン運河に合流して、パリに流れ込む。バスティーユ広場の地下を通ってセーヌ川まで行ける。いまは鴨や鵞鳥が群れ泳ぐ平和な場所である。もちろんいざとなればいまでも水路でパリに下れるはずだし、上っていけば、船でアムステルダムにだっていけるはずだ。

フェルテ・ミロン村は、ラシーヌが生まれた場所としても知られている。未完のまま朽ちた城塞は15世紀のものらしい。ファサードだけがドンと立ちはだかり、その裏側に、「Café des ruins(廃墟カフェ)」なるあばら屋が建っていた。最初冗談だと思ったのだが、近づくに連れ、いまも営業中であることが判明。しかも結構繁盛していた。お昼時だったこともあって車が次々と乗りつけて、日曜日のよそ行きの服を着た地元の人たちが店に入っていった。レストランもやっているようだ。今回はお弁当持参だし、食事は次回にお預けである。石畳の階段と石造りの家々が並び、一見ロマンティックな(作為的な人工物で構成されているにも拘らず、あたかもそれが自然で当たり前であるかのように「自然化」する意志=力が作用している)ところなんだが、実はそんな一筋縄でゆく村ではない。

というのも、この村にはあのギュスタヴ・エッフェルが作った小橋があるのだ。はば1メートル、長さ3メートルほどの橋で、ウルク運河左岸と例の中州(パリ市)を結んでいる。いつ、どういういきさつでエッフェルがこの橋を作ることになったのかは定かではないが、規模や工作精度(笑)からしても、エッフェル塔(1889年)やらニューヨークの自由の女神像(1886年)よりもずっと前のことだろう。千里の道も一歩からとはよく言ったもんである。ところで、ウィキペディアを見てたら、ピンク・フロイドの1977年アルバム「アニマルズ」のプロモ写真(現物見たことないのでどんなもんか不明)が、この村で撮影されたそうだ。

というわけで、携帯にカメラがついてきた、というお話であった。

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