2008年9月9日火曜日

これだけ大間違いをしてあれだけ有名になる方法(1/3)

またエニョンねたですんません(今週お目にかかる予定なので予習しとかないとね)。日本語では「アウラ」なんて旧仮名遣っぽい(いや、ただ正当にドイツ語読みしたのか?)呼ばれ方をしている、ベンヤミンのあの本に、エニョンが突っ込みを入れてます。オリジナルはここ。もともとはこの本に掲載された論考ですが、ウェブで公開されているので、翻訳しときます。結構言い回しが細かいので、もしかすると途中で挫折するかも(笑)。一応三回シリーズということでご了承くださいませ。

ベンヤミンによるアートとアウラと距離、あるいはこれだけ大間違いをしでかしておいてあれだけ有名になる方法
アントワーヌ・エニョンとブルーノ・ラトゥール著

昔、みんなが構造と力を信用しきっていた頃、我々はヴァルター・ベンヤミンのあの有名な論文に多大なる影響を受けたものだった。あれまで唯物論を礼賛してきたマルクス主義的、批評的伝統が技術的装置を手にしてしまったことに対する軽蔑から、なんとかして逃れなければならない。それが遥か昔の当時、求められていたことなのであった。

ベンヤミンの論文が発表されるまで、これらの技術装置は、使う人の利害によって良いものにも悪いものにもなる、中立的な、単純な道具だと考えられていた。ベンヤミン、そして彼のフランクフルトの同僚たちは、これとは別の教訓を持ち込んだ。技術は権力を作り出す。「芸術を見てみるがよい」と彼らは言った。再生産技術にちょっとした変化があっただけで、作品そのものの内容に、そしてその受け手に、信じ難い変質がもたらされたのだ。キリストは間違いを犯した。パンが増殖することで、聖体のパン自体も実体変化を受けることになってしまったのである。

このメッセージは強烈なもので、そのため、皆の目に止まらないわけにはいかなかった。

この論文を今日改めて読み直してみたが、我々のリアクションはかなり違う。先駆者たるベンヤミンに必要なオマージュを捧げ、現在ベンヤミンに対して行われている批評がどれだけベンヤミン本人に負っているかを認めた上で、我々は全く逆に、この論文があっさりと犯している間違いの多さに茫然とさせられるのである。いや、もっと正確に言えば、近代にせよ、過去にせよ、分析対象とされた現象のほとんどについて、ベンヤミンが全く理解していないことに呆れてしまうのだ。
我々は、ベンヤミンの威光の強さに対抗するために、わざと同じくらい挑発的なトーンで、敢えて指摘してみたい。これらの間違いは、ベンヤミンの功績の土台となった数々の洞察力にしてみれば全く他愛ない、力強いテクストのなかの些細な間違いとして済まして良いものではなく、彼が読者に及ぼした(そして現在も及ぼし続けている)幻術の主因なのである。ほとんどの作者が忌避するような、無知丸出しのこじつけを通して、『複製技術時代の芸術作品』には、芸術、文化、建築、科学、技術、宗教、経済、政治、そして更には戦争や精神分析に至るまで、近代的生活の全ての局面が簡素に描かれている。そして、こうした言葉が出てくるたびに、我々は、ベンヤミンが議論の対象を取り違えているような印象を禁じ得ないのである。

何度も繰り返される二分法が、この論文の議論全体の基調となる。一方に、単一性や熟考、集中、そしてアウラがあり、他方に、大衆、息抜き、没頭、そしてアウラの喪失がある。

しかし、この「アウラ」なるものの位置づけはかなり曖昧である。「アウラ」はベンヤミンのテーゼのみならず、近代及び過去に関する現行の議論の多くにとっても中心的なものなので、より厳密に点検する必要がある。ベンヤミンはアウラを持ち出すことで、議論に正当性を与えるための非常に効率の良い手段を手に入れる。ベンヤミンが現在を分析する時、アウラは、失楽園のようなものになる。これはある種の否定的参照点であり、ベンヤミンはこれを頼りに、作品の機械的再生産がもたらす新しい効果と、芸術の旧来の美に取って代わった大衆の誘惑を記述する。しかし、かれが過去を検証するときは、アウラに対するノスタルジーそのものもまた、幻想として、あるいは聖遺物として、つまり、崇拝的価値の残滓として、批判される。このように、近代芸術に対する批判そのものもまた、今や消滅してしまった選民的な芸術観に戻ろうとする、ブルジョワ的反動を意図するものとして批判されうるのだ。芸術の、規格化された近代的複製品は、現前性のオセンティシティを失った---しかし、現前性自体、古めかしい宗教的人工物に過ぎない、というのである。

我々は、芸術と宗教のあいだのこの第一のこじつけを、ベンヤミンの最初の間違いだと考える。神の隠された形象に捧げられた崇拝儀礼というものは、偶像崇拝の定義にこそ当て嵌まるもので、宗教の定義ではあり得ない。近代を批判するために宗教を取り上げておきながら、他方で宗教を批判するために近代を取り上げることは出来ないのである。にも拘らず、近代合理主義者の風情で、アウラは宗教と同一視されている---しかし、それならば、同時に芸術が神格を失ったことを非難することは出来ないはずだ。合理性という近代的道具は、宗教が目の敵にしてきたはずのフェティシズムと宗教そのものを区別しないのであり、それゆえ芸術の神格などはとっくに葬り去ってしまったのだ。逆に、近代が挑発したとされる芸術の「非神聖化」は、いかなる神聖な意味も持ち得ない。それがフェティッシュ的価値の喪失を目的としている以上、すでに失われたものに神聖な価値があるわけが無いのである---宗教は常に、神は形象ではなく、それを超えた何ものかであると言明してきた。それにも拘らず、この論文はアウラになにか実体的なものを盛り込み、そして神を偶像にすげ替えようとするものとして近代のフェティシズムを非難するのである。しかし、それならばなぜ、映画の話を持ち出すのか? どうして最新技術や大衆を持ち出すのか? 結局、近代についてはなにも言っていないのである。結局、聖書のなかの勿体ぶったお馴染みの預言者たちのように、大衆の信仰の対象である偶像やフェティッシュを覆しただけなのである!

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