2008年9月26日金曜日

Know your enemy!?

ポピュラー音楽研究も含めた文化研究というものは、エスタブリッシュされた(メインストリームの・エリートの)学問領域に対して、ある種の異議申し立てをすることで、自らの学問としてのアイデンティティ(あるいは科学的説得力)を獲得して来たと思うんですが、その「敵」に当たるもんがはっきりしていないと、異議申し立てもシャドーボクシングに終始してしまうわけですよね。もちろん、異議申し立てが手段ではなく目的になってしまったら、それは本末転倒で、全く無駄な行為なわけだけれど。

というかポピュラー音楽研究に限らず、こういう対立は日常生活のあらゆる局面にあると思う。例えば、親の言う事に納得出来ない子ども。先生の教えに歯向かう生徒。上司の命令に従えない部下。新内閣を信頼出来ない国民。大抵の場合、対立の図式は、年配対若手、多数派対少数派、権力対弱者とか。こういう時に、有効な異議申し立てが出来るチャンネル(レゾー)をもっていることは、民主的な市民生活を営む上で大切な事であり、音楽を含めた文化的・創造的活動は、そうしたレゾーを効率よく作り、運用出来る手段の一つなのである(と言い切ってしまうとかなりイデオロジックか?)。

で、ポピュラー音楽研究を大学で教える、ということになると、この「敵」の姿というのがなんだか良く分からなくなる。パリでコンセルバトワールや大学関係者の話を聞いていると、どうも「実技」対「音楽学」という構図を持っている人と、「音楽学」対「社会科学」、つまり「テキスト分析」対「コンテクスト分析」という構図を持っている人がいるのが判ってきた。僕は社会科学出身だし、今まで、後者の構図でポピュラー音楽研究を把握してきたところがある。でも、もしかするとこれを本格的に問い直さなければならないのではないかと思っている。

「社会科学」の方が「ポピュラー」なるものを析出・対象化しやすく、逆に「音楽学」は「ポピュラー」階層には自然には獲得出来ない能力(要するに音楽的読解力)を前提に、その能力にとって心地よい(都合の良い?)対象を分析するので、必然的に「ポピュラー」は卑下され、「芸術音楽」だけが研究対象になる。これがなんだか、ポピュラー音楽研究レペゼン庶民、音楽学レペゼンブルジョワみたいな構図に還元されて、ポピュラー音楽研究の方になんというかメシア的な、弱者救済的な正義感を与えていたような気がするんだよね。そりゃ救えるものだったら、弱者は救いたいけれども。

というのも、その弱者が聞いている音って、どうやって分析可能なの、という疑問があるのね。コード進行も和声もメロディーも、形式的には分析出来なくても(する必要を感じなくても)、心地よいとか、キモいとか思ったり、あるいは全く無関心だったりする、今の社会での音楽のあり方、聴こえ方を分析の対象には出来ないのかしら。「作者」とか「作品」とか言うけれど、もう誰のなんていう曲かなんて、覚えてない方が多いでしょ。下手するとサビの一部しか頭に残ってない。これを後退的聴取とかいうとやっぱり問題あるけど、じゃあその聴取ってなにを聴いているの?

この辺りの疑問に細かく答えていってぐるっと一周すると、ポピュラー音楽研究コースで実技をどうやって定義して、演奏力のある学生とない学生をどうやって見分けるのか、なんかについても答えが出てくるような気がするんだが。

キース・ニーガスと最近したやり取りでは、この辺の問題が話題になった。近く久しぶりに会う予定なので、いろいろヒントを貰いたいと思ってはいる。

1 件のコメント:

DJmagimix さんのコメント...

↑我ながらどう読んでも酔っぱらいの戯言にしか読めない……(笑)。