2009年1月18日日曜日

ピーター・サンディ・インタビュー(その2)

ポストスクリプテュム:録音技術の到来以前、我々は視覚を常に音と関連付けていました。しかし、録音技術やラジオ、蓄音機の発明以来、こうした関連付けは無くなります。これは、例えば絵画などの別のメディアにおいて起こった知覚的変化に比べると、有意な【訳注:音楽に特徴的な】違いだと思われます。

ピーター・サンディ:ピエール・シェフェールは、この知覚的変化を示すのに「アクースマティックな音楽【la musique acousmatique】」という特別な用語を使っていました。シェフェールにとって、この「アクースマティックな音楽」とは「具象音楽」でした。しかし考えれば考えるほど不思議な名前の付け方だと思いますよ。というのも、ご指摘の通り、この音楽は、音、つまり純粋に音だけを抽象化するために、視覚的な次元を文字通り剥奪されているという意味において、これ以上考えられないくらい抽象的なのですから。このような純粋な音というのは、録音技術によってのみ立ち現れるのです。ですから、純粋な音というのは、ピエール・シェフェールが逆説的に「具象」と名付けていた、録音技術とともにしか現れることのない、このような抽象化のことだったと考えられます。ところで「アクースマティック」という単語自体は非常に古いものです。シェフェールは、この単語を辞書で見つけたと言っています。その辞書によると、この単語は、ピタゴラスの弟子たちがものを聴く、その態度を示す形容詞ということです。ピタゴラスの弟子たちは、カーテンで仕切られた向こう側にいる師匠の声を聴いたのだそうです。つまり、弟子たちはピタゴラスの姿を見ずに聴いたのです。先に述べたような抽象化、つまり他のすべての(特に視覚的)文脈から抽象化された音を現出させることで録音技術が可能にしている、限りなく今日的な経験というのは、実はこれと同じことなのです。しかし同時に、こうした経験に名前を付けるのに、わざわざ古代文明に端を発する言葉を引き合いに出しているのは偶然ではありません。というのも、そこには、先に述べた《具象音楽》の遥か前に、既に視覚と聴覚の間の関係構造が、疑う余地なくあるからです。例えば、我々は「オルペウス」の物語を、モンテヴェルディによるその翻案を読み込むことが、つまりこうした立場から解釈することが出来るはずです。つまり、これは現在執筆中の論文でも扱っているのですが、モンテヴェルディのオルフェーオの物語は、盲目的な聴取という命題を中心にして展開します。さらには、フランス語の「聴取【écoute】」という言葉の第一義も、こうした経験に遡ってゆくようです。1694年のフランス学士院辞書(Dictionannire de l'Académie française)はこれを、「見られることなく聴くことの出来る場所(Lieu d'où l'on escoute sans estre veu)」と定義しています。

このように、「アクースマティックな」聴取には、録音技術の経験と比較しうる新旧の経験が含まれていることになります。問題なければここで、先ほどの最初の質問に戻ってみたいと思います。私が指摘したように、音を複製する技術は、新しい聴取の対象へのアクセスを可能にする、アクセスを認め、それと全く同時にその新しい聴取対象に介入し、我々の聴取を書き込み、あるいは書き直すという可能性を開きます。つまり、もし、ここでも、録音技術とともにこれまでになかった可能性が現出したとしても、それはしかしながら、実は、裸の聴取、つまり機器や人口補綴に依存しない聴取の中にも既に存在していた構造に、録音技術が入り込んできたかのように進展したのです。なぜなら、私の考えでは、音を聴きたいというあらゆる欲望の中には、常に聴かせたいという欲望も内在しているからです。聴き手としての私を聴取に向けて突き動かし、そして何らかの方法で私の聴いたものを録音し、保持し、記憶するように突き動かし、とどつまり、フランス語でよく言うように、ある音に対して耳を貸す【prêter l'oreille】よう私を突き動かすのは、音響的対象物が要求し、呼び起こす注意深さだけではなく、やはり、他者に対して私の聴取を差し向けることでもあるのです。このように、根本的な構造、つまり聴取の第一の状況は、一対一の対面状況(聴き手が聴取対象と向き合っている)ではなく、もうその時点から、間違いなく、聴取対象、聴き手、そして第三者という三角関係なのです。ここでいう第三者とは、現在生成しつつあり、現在送出されつつある(そして送出しながら生成している、または生成しうるために送出されつつある)聴取の向けられた相手なのです。

要するに、私は、私の聴いているものを聴かせたいと思って聴いているのです(必要ならこれを、聴取の共有と呼んでも良いでしょう。ただしそれは、この共有が純粋に他動的なやり取りではなく、聴取自体を分断するものであるという限りにおいてです)。このようにして、(他者に)私の耳を貸すために、私は耳を貸すのです。聴取は三角関係のなかを流通し、やり取りし、形を変えます。そしてその中に書き直したり、差し向けたり、送り出すための空間としての流用空間を現出させるのです。つまり、私は、私の聴いているものを、そもそも他者(とはつまり、私の中にいる他者であり、または他者としての私ということにもなります)に差し向けているのです。もっと言い切ってしまうならば、私は、聴かせたり、耳を澄まさせたりするためにしか、聴いたり、耳を澄ましたりしないのです。この意味で、すべての聴取は、それが生産に関わる限り(それがさせることに関わり、無知な観察者が時に論じるような、例の影響されやすい純粋な消極性ではない限り)、構造的な次元で既に、翻案であり、編曲であり、あるいは書き直しなのです。

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